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没後100年記念展

川上涼花1887-1921

●川上涼花(1887-1921)は大正期に新しい表現を求める若手芸術家が集うフュウザン会に、岸田劉生、萬鉄五郎、高村光太郎等と共に活躍した洋画家です。個性的な青年画家たちのなかでも、涼花の作品はその異色ぶりから最も注目されたと伝えられています。のちに油彩画のほか木炭素描、日本画的な屏風画・絵巻なども制作する一方で新聞・雑誌の挿絵や執筆も手がけています。

●1921年に34歳という若さでこの世を去り、作品の多くを戦災で焼失したため、現存する作品は多くありませんが、「中野の仙人」と呼ばれた涼花の暮らしぶりは、慎み深く、音もなく流れる小川のような静けさであったと言います。東中野にアトリエを構え、周辺の風景を題材にたくさんの木炭画を制作しながら、新たな色彩表現・抽象表現を模索しました。

●没後100年を記念し、西欧絵画等の影響を感じさせる油彩画1点、水彩画1点、色のない世界で自然描写を研究した木炭画3点のほか、1936(昭和11)年に酒井億尋氏が出版した『川上涼花画集』に掲載された作品を紹介していきます。

≪あざみ≫ 1914(大正3)年 油彩・カンヴァス 41.5×49.4㎝

≪藁つみの庭≫ 1919(大正8)年 水彩・紙 32.4×44.3㎝

≪裸木並木≫ 1917(大正6)年 木炭・紙 30.9×47.3㎝

≪藁塚≫ 1916(大正5)年 コンテ・紙 31.7×47.1㎝

≪裸木並木≫ 1916(大正5)年 コンテ・紙 47.3×31.1㎝

​『川上涼花画集』1936(昭和11)年掲載作品

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About
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Family History

1887(明治20)年に生まれた川上涼花(本名 川上音次郎)は太平洋画会研究所に学び、1912(大正元)年に新しい表現を求める若き画家たちが集ったフュウザン会に参加。個性的な青年画家たちのなかでも、涼花の作品はその異色ぶりから最も注目されたと伝えられています。のちに油彩画のほか木炭素描、日本画的な屏風画・絵巻なども制作する一方で新聞・雑誌の挿絵や執筆も手がけています。

1921(大正10)年に34歳の若さで亡くなった涼花の作品は戦災により多くが失われ、今に残る作品は、親交のあった友人たちの元に残された20点ほどといわれています。

特に数多く所蔵していたのは、生前の涼花と親しく交流し、のちに実業家となった酒井億尋氏でした。戦後、酒井氏は愛蔵する涼花の代表作である油彩画『鉄路』、『植物園風景』、『麦秋』などを東京近代美術館とアーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)に寄贈しています。

一方、油画1点、水彩画1点、木炭画3点を、戦後、被爆した広島から東京に戻った涼花の弟である川上藤次郎に返却しました。返却された作品はその後、藤次郎の娘たち・孫たちに今に受け継がれています。

川上涼花没後100年の機会に、姉妹たちのもとに残された作品群を展示するとともに、今なお活動の全容が知られていない川上涼花の人生を振り返ります。

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■川上涼花 (本名:川上音次郎)

1887(明治20)年 9月 東京市本郷4丁目(現、東京都文京区本郷)に生まれる。

1905(明治38)年 3月 太平洋画会研究所に入る。

1912(明治45/大正元)年 5月「雑草会」結成。岸田劉生や萬鉄五郎らが参加。

  9月 斎藤与里、岸田劉生らとともに「フュウザン会」結成。

  10月 第1回フュウザン会展に参加。

1913(大正2)年 3月 第2回フュウザン会展に参加。

1914(大正3)年 11月 大森商二と中野で暮らし始める。

1915(大正4)年6月 東中野に画室を新築し独り暮らしを始める。

  中野周辺をモチーフに木炭画(多くは風景画)を描くようになる。

  夏頃、越後・佐渡に酒井億尋はじめ友人たちをたずね長期滞在する。

1916(大正5)年 4月 斎藤与里、萬鉄五郎等と「日本美術家協会」を結成。

1917(大正6)年 5月 第2回日本美術家協会展会場内にて「川上涼花・大森商二作品 木炭素描特別陳列」を併設開催。

1921(大正10)年 5月 結核のため享年34歳で没する。

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